第5回 夏は来ぬ

 五月生まれの私が一番好きな唱歌は、『夏は来ぬ』です。歌人で国文学者の佐佐木信綱によって、旧暦の卯月と皐月の風光がみごとに読み込まれ、卯の花(ウツギ)、ホトトギス、早乙女、五月雨など初夏を彩るあれこれが美しく表現されていますが、新暦を使う現代人の感覚とは一ヶ月のずれがあります。
 卯の花が咲くのも、ホトトギスがきょっきょっきょっと賑やかに鳴きはじめるのも初夏。時鳥、不如帰、杜鵑などと表記されたこの鳥は、古来から文芸の題材に盛んに使われてきました。かつては、郭公もホトトギスと訓じたようですし、歌人・正岡子規の子規も、実はホトトギスの意味とかで、いかに日本人がこの鳥を愛してきたかが解ります。もっとも、短気な天下人が、鳴かないことを理由に「殺してしまえ」といったとかいわないとか、物騒な戯れ歌も伝わっています。
 今は五月晴れといえば、新暦の五月の初夏のさわやかな晴天を連想しますが、実は、旧暦の五月(今の六月)の梅雨の晴れ間をいいます。芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」は、梅雨の長雨による増水のさまを詠んでいて、その頃には梅雨も終盤で、現代人の感覚とは大きなずれがあります。
 戦後に、多くの文部省唱歌が学校教育から削除された理由のひとつが、新暦との季節感のずれと社会の変化だったと聴いたことがあります。『村の鍛冶屋』が教えられなくなった理由は、村の農具鍛冶が激減したからだったとか。しかしこうしたことは、私たちの歴史と文化の背景をこどもたちに伝える絶好の教材だったはずなのに。
 数年前から文科省では、留学生の数を増やすために海外の新学期とのずれをなくそうと、大学の学事暦(最近では、わざわざアカデミック・カレンダーと言い換えています)を四月開始から九月開始へ移行しようとする乱暴な動きがあります。3月末に卒業式、4月初めに入学式を行うことが日本国民の共有体験として根付いている現状で、時代に迎合したこの政策は、文部省唱歌の伝承を切り捨てた愚策の繰り返しのように思えてなりません。文化には、新しく築き上げる文化とともに、捨て去ってはならない護り伝えるべき文化の二種類があることを、肝に銘じて欲しいと思います。
 そんな思いを込めて、新暦の五月晴れのもと『夏は来ぬ』を口ずさんでいます。

夏は来ぬ
 佐佐木信綱・作詞

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘の 薫るのきばの
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ


2021年5月11日
館長 籔内佐斗司