第9回 河内湖

sentokun 「せんとくんのお父さん」というイメージがあまりにも強いせいか、私を奈良県の出身だと勘違いされる方が多くいらっしゃいます。しかし私は、大阪市阿倍野区の生まれで、育ったのは泉州の堺です。ですから、大和川水系の水で育ちましたので、大和の国のミネラルと有機物で大きくなったと思っています。
 今の河内平野は、縄文時代には大阪湾と繋がった河内湖と呼ばれる大きな入江になっていました。大阪市鶴見区からナガスクジラの化石が発掘されていることから、そこにはクジラまで遊弋していたと考えられています。そして難波宮遺跡や大阪城から四天王寺、住吉大社近辺まで繋がる上町台地は、大阪湾と河内湖を隔てていた半島状の高台を形成し、波の静かな湖岸は、古代の大動脈・瀬戸内海航路の東のターミナル港として栄え、多くの豪族や渡来人の集落があった先進地域でした。やがて河内湖は、河川が運ぶ堆積物によって広大な水郷地帯になっていきました。
 『日本書紀』の仁徳天皇十一年十月の条には、『宮(仁徳帝の高津宮)の北の郊原を掘りて、南の水(大和川)を引きて西の海(大阪湾)に入る。よりてその水を号(なづ)けて堀江という。又、まさに北の河のこみ(洪水)を防がんとして、もって茨田堤(まんだつつみ)を築く』とあります。これは、大和川が運ぶ土砂を流すために、上町台地北端の大阪城北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘削し、淀川左岸に堤防を築いた日本で初めての大規模治水工事の記録です。そして欽明天皇の時に百済からもたらされた仏像を、物部氏や中臣氏ら反蘇我派が海中に遺棄したと伝えられるのがこの難波の堀江。また後に信濃国の善光寺の本尊となったその仏像を本多善光が見つけたのも、この難波の堀江。弓削道鏡が西京や由義寺を造営したのは、河内湖岸の今の八尾市のあたり。

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 図版:道鏡禅師像 籔内佐斗司作、2019、西大寺蔵


 山が多く狭隘なわが国では、近代になるまでの物流は河川や海流による水運が主流でした。そして畿内の物資の集散地であった河内湖に流れ込んでいたのが、琵琶湖から今の宇治市一帯にあった巨大な巨椋池(おぐらがいけ)を通る淀川水系と、大和国の初瀬川、飛鳥川、佐保川などが合流して生駒山系と葛城山系の間を通って大阪平野に流れてくる大和川水系でした。そして大阪平野の歴史は、このふたつの河川が運んでくる土砂と洪水との格闘でもありました。八百八橋の水都「浪速」が形成された背景には、河内湖の長い歴史があるのです。
 現代人は、古代史を大和国(飛鳥京、平城京)と山背国(平安京)の関係で考えがちですが、実は河内国や浪速、そして近江国まで加えた地勢で考えなくては理解できません。歴史は、平面的な県境だけでなく、水の流れに応じた凸凹の三次元の地理で考える必要があります。秦氏や鴨氏はなぜ本拠地を山背国にしたのか、中臣鎌足はなぜ山背国の山階で亡くなったのか、古代の先進地域であった河内湖周辺との関連を含めて考察したいものです。

2021年6月11日
館長 籔内佐斗司