今回は、わが国の近代彫刻史のなかにおける森川杜園の位置付けを考えてみたいと思います。
多芸多才の異能のひと・森川杜園を、奈良人形師だけで捉えると大きく見誤りかねません。明治初年の神仏分離で、奈良の仏像が危機に瀕したとき、大いなる郷土愛からそれを研究し蘇らせた恩人としての側面を、私は強調したいと思います。現代のような写真や動画などの記録媒体が未発達だった時代に、古文化財を実作者の立場から写生と模造によって忠実に記録し再現したことは大いに評価されるべきことです。このことは、東京大学史料編纂所の稲田奈津子氏の「森川杜園 『正倉院御物写』の世界」に詳しく記されており、その原本全八巻(東京大学大学院所蔵)も本展に出品されています。そして本物と見まがう『金峯山経塚出土品 金銅経箱』や『法隆寺九面観音立像』などの模造は、古文化財から謙虚に学ぶことの大切さを教えてくれます。出品作品を見て痛感することは、木彫に施された彩色がかなり厚塗りにもかかわらず、ほとんど剥落していないことです。これはよほどしっかりと膠と顔料を用いた彩色技法に習熟していたことの証です。
そして、杜園が行ったような古文化財の模写・模造作業を通じて、いにしえの技法と材料、またその造形を修得した人材が現代に蘇ることの意義は絶大です。そうした人材は、デジタル技術による3Dプリンターでは代えられない、わが国特有の文化財の継承形式である「伝世古」ならではの無形の資産であり、現代日本人の誇るべき能力といえます。
森川杜園「天灯鬼立像 (模像)」明治時代(19世紀)
東京国立博物館蔵 Image: TNM Image Archives
幕末から明治にかけて、春日社から切り離された興福寺はたいへん荒廃しました。今では大人気の運慶の三男・康弁の作と考えられる『天灯鬼、竜灯鬼』もたいへん傷みがひどかったのですが、それを現在の形に修復したのは杜園だと言われています。激しい動勢をもった『天灯鬼』は、複雑で変則的な構造をもっていたために、特に傷みがひどかったものと思われます。すなわち、構造図解の通り、まず前後二材からなる体幹部を直立した姿で彫り始めました。そして粗彫りが終わった時点で、腹部を鋸で真横に切り離し、下半身を木目に沿って左右に割り矧ぎしています。そして胴体に三角材を挟み込んで上半身を大きく右手方向に傾けています。これらは制作途上の改変と言うよりは、ヒノキの性質を知り尽くした康弁が、制作の簡便さを狙って最初から構想したのだろうと私は思っています。さて今回、杜園が模造した『天灯鬼』を会場で間近にゆっくりと観察したところ、現物より小さい縮小模刻のせいかもしれませんが、木寄せや割り矧ぎの再現はしていないようです。形状の模造を優先して、構造の再現には重きを置かなかったのかもしれません。
益田芳樹による天灯鬼立像の構造技法の解析図
明治の杜園が成し遂げたことを現代に実践している若者たちがいます。そのひとりである益田芳樹くんは、2008年度に私の東京藝術大学文化財保存学講座で博士号を取得しました。彼は、博士課程で『慶派仏像における胴継ぎ構造の研究』と題した本作の制作技法の研究に取り組み、その不可思議な構造をみごとに解析し再現しました。もちろん彼の模造作品は本展に展示されてはいませんが、杜園の『天灯鬼』と130年の時を隔てて現代の若者が取り組んだ『天灯鬼』をぜひ比べて頂きたくてここにご紹介いたします。あなたはどちらに軍配を挙げますか?
益田芳樹『天灯鬼立像現状模刻』2008年
2021年10月1日
館長 籔内佐斗司