第39回 絹

 絹の衣襞(いしゅう)が織りなす美しく官能的な輝きと艶は、古今東西、人々のこころをときめかせてきました。古代ローマ人や欧州の王侯貴族が恋い焦がれた絹は、同じ重さの金との交換比率で、莫大な西方の冨と引き替えられました。近世になると、東インド会社が勃興し、インドや東南アジア航路が発達してシルクロード交易が廃れ始めると、ペルシア商人たちは密かに持ち出した蚕をカスピ海南岸の山岳地帯で育て始め、幾何学模様の精緻な絹織物や絨毯に仕上げて大きな利益を上げました。
 奈良をシルクロードの東の終着駅と思うのは日本人だけです。中国のひとは、シルクロードはローマから長安までも交易ルートだったと考えます。そして、長安から奈良までは、仏教の経典や儒教などの書物が一方通行で運ばれたブックロードというべきだと主張します。文化は水と同じで、高いところから低いところへ流れるのが常ですから、残念ながら文化は大陸から日本列島に流れ込んだことに間違いありません。ただ先頃、奈良の畏友から「中国人は記録の天才、日本人は保存の天才」と教えられました。文化を送り出した方では、王朝が交替するたびに多くの先人の文化財を捨て去ったのにくらべ、私たちの先祖は、渡来の文化財を大切に保存し、伝承しました。そしてこれらの総体が日本文化といえるでしょう。
 中国からもたらされた養蚕についても、独特の感性と愛情を持って日本文化のひとつとして育て伝えてきました。
 以前、宮中御養蚕所で育てられた蚕「小石丸」からとった絹糸を拝見したことがあります。世界中の他の産地の絹糸と見くらべられるようになっていて、その差があまりにも歴然としていて驚きました。糸の細さから色合いや艶も、全く別格でした。昭和天皇の后である香淳皇后以来歴代の皇后さまが、御親蚕を手ずから飼育してこられた理由が理解できました。
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小石丸の幼虫
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小石丸の蚕糸の輝き

 小石丸は、奈良時代から伝えられてきた日本在来種の蚕で、この繭から取れる絹糸は極めて細いうえに太さが不均一なので紡ぎがとても難しいのですが、引っ張り強さが大きく切れにくく、また毛羽立ちが少ないために、染めあげたときの艶がみごとだそうです。しかし、産卵数が少ないうえ病気に弱く、繭を作る時期が一定しないなど、育てるのが大変むつかしく、そのうえ、ひとつの繭から採れる糸の長さが他の品種の半分ほどの500メートル程度と、生産性がきわめて低いのです。したがって、明治時代の大量生産の近代紡績業にはなじめなくて、小石丸は宮崎県などで細々と飼育されるのみとなりました。しかし香淳皇后が、1928年(昭和3年)から皇居にある紅葉山御養蚕所で飼育を始められました。敗戦間もない1947年(昭和22年)6月3日の記者会見で「古い日本種の蚕を保存したいと思って、小石丸も飼っています」とお話しされ、自信喪失していた国民に日本文化伝承の希望を持たせて下さいました。1994年(平成6年)に、小石丸が正倉院に残されていた絹の古代裂復元に不可欠であるとして、2010年(平成22年)の事業終了までの16年間に亘り増産され、正倉院に納められました。

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 奈良県立美術館で6月19日まで開催中の『ジャパニーズウェディング-日本の婚礼衣裳-』展の関連イベント『せんとくんとお嫁さんごっこ!』で、幕末頃の婚礼衣裳を子どもサイズに仕立て直したものを使いましたが、まずその生地の軽さと柔らかさ、そして着心地のよさにとても驚かされました。近代工業として大量生産される以前の近世の絹織物がいかに優れたものであったかを、改めて実感した次第。このイベントに参加してくれたこどもたちが、ほんもの日本の絹の素晴らしさを体感し、和服や日本文化に興味を持ってもらえたら幸いです。


2022年6月9日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司