第54回 具体美術協会

 今では藝術の最先端とあまり縁がなさそうに思える大阪ですが、かつて日本のもっとも前衛的な美術の発信地であった時代がありました。1936年に住友財閥の寄附で天王寺公園内に建設された大阪市立美術館の地下には、1946年に開所した「美術研究所」があります。美術大学を受験するための石膏デッサンや油彩画教室などの最古参として知られ、まだ詰め襟だった私も大きな画板を抱えて通っていたことがありました。しかし、今回お話しをする「具体美術協会」の作家の多くが、この研究所から巣立っていったことを知るのは、東京藝大に入学したあとのことでした。

image1

image2

大阪市立美術館美術研究所(大阪市立美術館ウェブサイトより)


 1954年に、大阪出身の吉原治良(よしはらじろう、1905〜1972)のもとに集まった若手の前衛芸術家たちによって結成された「具体美術協会」は、当時最先端の表現者集団(Avant-garde)でした。彼らは、1940年代にパリで始まった非具象(アンフォルメル・Art informel)的表現を日本で開始した先駆者で、その後、新制作協会から白髪一雄、金山明、田中敦子、元永定正らも参加しました。「形式に囚われず、どこにもないものをつくろう」を合い言葉に、絵画表現だけでなく、のちにインスタレーションと呼ばれる屋外展示やアドバルーンを浮かべた前衛作品によって一時代を画しました。そして彼らの作品の多くが、大阪中之島美術館などに収蔵されているのは、元気だった大阪財界の大きな後ろ盾があったからでした。
 具体美術協会の作家たちによる表現活動は、欧米の美術史家から、日本の現代美術の潮流「GUTAI」という呼び名で定着しています。その中心人物であった吉原は、食用油脂製造業「吉原製油」(現・J―オイルミルズ)を営む資産家である一方、自らも作家活動を行いました。自らの地所のある中之島に建つ建物を改修したギャラリー「グタイピナコテカ」を作るなど、具体メンバーたちのパトロン的存在となりましたが、1972年に彼が亡くなると、具体美術協会は解散しました。しかしその中核メンバーたちは、その後の日本の前衛美術を担っていくことになりました。彼らの仕事は、ニューヨークやパリの同時代の作家たちと比較しても、遜色のない創造性をもっていたといえるでしょう。1964年の東京オリンピックや1970年の万博などを節目とした戦後から高度成長期のわが国の文化的活力は、今見てもまぶしい光彩を放っています。
 具体美術協会のもうひとりのパトロンとして忘れられない人物に、大橋嘉一(1896〜1978)が挙げられます。滋賀県大津市出身の氏は、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)で学んだ後、大阪に焼付漆工業所(現・大橋化学工業株式会社)を起こし、実業家として成功しました。そして1950年代から1970年代にかけて大阪で活況を呈した「具体」の作家たちの難解な作品を精力的にコレクションしました。彼の死後、その2000点といわれるコレクションは、国立国際美術館、京都工芸繊維大学資料館および奈良県立美術館に寄贈され、散逸することなく現在に到っています。また、私が藝大の学生だった頃、油画専攻の卒業生に贈られる「大橋賞(現・O氏記念賞)」が、大橋嘉一氏に由来することを当館に勤務することになってから知り、大いにご縁を感じた次第。 
 吉原氏や大橋氏を継承するようなかたちで、名古屋において1970年代から、アキライケダギャラリーやギャラリーたかぎなどが現代美術のパトロン的存在となりました。そしてギャラリーたかぎに勤めていた神野公男というコレクター兼文筆家が、ギャラリーHAMという「具体」のその後を引き継いだような拠点を1992年に造りました。私がまだ三十代だった1980年代末に、友人の紹介で彼と何度かお会いしたことがあります。その後、私が銀座の大手画商らの取り扱い作家となって工芸的色彩の強い作品を作るようになってからは、なんとなくお付き合いが疎遠になりました。しかし、神野氏を通じて、田中敦子や草間彌生、荒木経惟、黒田アキらの作品に触れ、また神野氏の芸術論を聞くことができたのは、貴重な体験でした。その神野氏も、2020年には鬼籍に入られました。 
 昨年の東京オリンピックのアートワークと比べるまでもなく、日本の高度成長期の文化力の底力を感じることの多い昨今です。古今東西を見渡しても、藝術は経済が勃興している場所で発展するという定説を再認識しています。 
 11月26日(土)から12月25日(日)まで、奈良県立美術館で開催される「館蔵名品展《冬》 絵画のたのしみ」を通じて、歴史と仏教美術を中心に語られることの多い奈良にも、日本の戦後美術を語る上で欠かすことのできない大橋コレクションがあることをぜひ知って頂きたいと思います。

2022年11月23日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司