第57回 真善美

 ソクラテス、プラトンの時代から「真(Truth)・善(Goodness)・美(Beauty)」の追求は西欧哲学の中心命題であり、藝術が表現すべきテーマでもありました。これを具象化した「三美神(The Three Graces)」の絵画や彫刻は、古代ギリシア、ローマから、ルネッサンスを経て近代に到るまで、ヨーロッパで創られ続けられました。

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 わが国でも、「清く、正しく、美しく」は、人が身を修め、行動すべき道理の根本でした。
 「清い」とは、よごれやくもりがない清浄なさま、すなわち清らかで潔い倫理観・宗教観といい換えることができ、八幡信仰を持つ武家にとってなによりも大切な規範でした。
 「正しい」とは、偽りのない道理に叶ったさま、すなわち邪(よこしま)ではないということで、皇大神宮が表す神霊の正義をいい、天皇の正当性の証です。
 「美しい」は、醜くなく優れているさま、すなわち審美観をいいます。芸能や音楽の神である春日明神は、公家たちに美しくあることをなによりも求めました。
image_02 江戸時代に神が託宣したといわれる日本人のあるべき「真善美」を明文化したものに「三社託宣(さんしゃたくせん)」がありました。骨董市に行けばいくらでも見かける掛け軸ですが、その内容を知る人はわずかですし、今や床の間に掛ける人は絶無でしょう。三社とは、伊勢神宮と春日明神と石清水八幡宮です。天皇家に繋がる天照大神の伊勢神宮が「正」を、藤原氏(公家)に繋がる春日大社の春日明神が「美」を、武家に繋がる石清水八幡の八幡大菩薩が「清」を表し、皇室、公家、武家の日本の支配層のそれぞれの倫理規範であり、庶民は支配者がそれに倣って行動していれば安心でした。しかし明治の神仏分離と、戦後に宗教的なものが教育から排除された結果、三社託宣を知る人は殆どいなくなりましたが、日本人なら心得ておくべき教養として教育現場に復活させるべきだと私は思っています。
 「美しい」によく似たことばで「きれい、綺麗」がありますが、「きれいにする」「きれいである」のように文法的には「清潔なようす、整然としているさま」という状態を表す形容動詞で、形容詞の「美しい」とは品詞の種類が異なります。
 「美」という漢字は、「羊+大(人)」から成り立ちます。黄河流域や乾燥地帯の遊牧民にとって羊は、羊毛と皮革と食料を提供してくれるとても貴重な財産でしたから、義、善、羨、祥、養、翔、群、羼などのように大切なものやたくさんを表す文字の多くに「羊」が使われており、その総体を「美」と中国人は考えたのです。
 清少納言の枕草子には、平安時代中期のインテリ女性が感じた「うつくしきもの」を列挙しています。「瓜にかきたる稚児の顔」「雀の子の、ねずみ鳴きするに、をどり来る」「二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを目ざとに見つけ、大人などに見せたる、いとうつくし」・・・。清少納言は、総じて小さく無邪気で可愛いさまを「うつくし」と感じたようです。
 「美」の反対概念として「醜(みにくい)」があります。そして醜いひとを指して「ブス(毒、附子)」。宝塚歌劇団には伝説の教え「ブスの25ヶ条」が伝わっています。ここに挙げられた「ブス」の要件とは、生まれながらの姿形ではなく、本人が自覚すれば矯正できる行いばかりです。タカラジェンヌたちに「こうあってはならない、これと逆になるよう心掛けよ」との願いを込めて、どこかの愉快な知恵者が作ったものでしょう。これは女性、男性を問わず、すべてのひとびとにとって、自分と社会が幸せになるための箴言です。

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 「真善美」は、ひとがよきひとであるための必須の徳目として、殺伐とした世相である今こそ大切にすべきことだと思います。ぜひ「三社託宣」と「ブスの25ヶ条」を座右のことばとしたいものです。


2023年1月11日 
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司