鉄道も150年、美術(館)も150年(2023年1月12日)

 昨年、このコラムの第45回(2022年5月18日)で、2022年は日本にミュージアム(博物館・美術館)ができて150周年になることを紹介しました。日本におけるミュージアムの第一号である東京国立博物館の設立は1872(明治5)年のことでした(今の上野公園ではなく湯島ですが)。同じ年、日本の鉄道路線第一号が東京・新橋~横浜間で開業しています。世間的にはこちらの《鉄道150年》のほうがメディア等で取り上げられることが多く、イベントもいろいろ催されたようですね。

 もう一つ150年がらみで付け加えると、興味深いことに、英語の《Fine Art》の訳語として《美術》という言葉が公文書などで使われ始めたのも1872(明治5)年なのです。こうした符合は、幕末から明治にかけて近代化の波がいかに広範囲で大きく、激しかったかを物語るものかもしれません。

 そんなわけで、東京駅の丸の内赤レンガ駅舎にある東京ステーションギャラリー(公益財団法人東日本鉄道文化財団が運営)では、つい先日(1月9日)まで『鉄道と美術の150年』という企画展を開催していました。同館によれば「鉄道と美術150年の様相を、鉄道史や美術史はもちろんのこと、政治、社会、戦争、風俗など、さまざまな視点から読み解き、両者の関係を明らかに」する試みということですが、とても興味深い内容のものでした。
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画像:東京ステーションギャラリー入口の展覧会看板 筆者撮影

 自動車や飛行機に先んじて普及した鉄道は、19世紀に始まる近代化を象徴するものであり、社会や生活の在りようを大きく変えました。したがって美術に限らず芸術的創作には欠かせないガジェットの一つになったと言えます。たとえば、日本近代文学の思潮の一つに横光利一や川端康成らの《新感覚派》がありますが、その旗手横光利一(1898-1947)が、当時としては斬新な表現で鉄道を描写しています。故障で立ち往生した特別急行列車の乗客たちの一コマを描いた小品『頭ならびに腹』(1924)は、《新感覚派》的文章表現の典型として何度となく引き合いに出されてきました。冒頭に「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」という書き出しで始まり、さらに「動かぬ列車の横腹には、野の中に名も知れぬ寒駅がぼんやりと横たわっていた」といった具合です(引用は新仮名に改めました)。

 特に20世紀に入ると、近代化による機械的なもの、工業的なものの中に美的感覚や新しい造形の方向性を見出す例はたくさん出てきました。その中で鉄道もモチーフとして使われたりしたのでした。一方、鉄道を媒介として人生や社会を照らし出すような表現も数多くあります。今回の『鉄道と美術の150年』展は近代のさまざまな作品例が紹介するとともに、現代アーティストが駅やその周囲を使ったメッセージ性の強いパフォーマンスなども取り上げられ、鉄道開通150年のお祝いにとどまることなく、鉄道と社会の《陽》と《陰》に目配りした構成になっていたのが印象的でした。興味深い作品がいろいろ選ばれていた中で個人的に惹かれたのは、第二次世界大戦に出征した洋画家、香月泰男(1911-74)が自らのシベリア抑留体験を描いた2点の作品でした。希望のない俘虜の境遇と故郷への思いを鉄道というモチーフに託した味わい深い作品です。香月泰男ですから、具象的なモチーフと体験に依拠していながら写実からはむしろ遠く、抽象絵画の一歩手前まで造形化することで、死と隣り合わせの絶望と生への希求を普遍的に昇華したものとなっています。

 このように展覧会はよい企画でしたが、今日の社会における鉄道に眼を向けるとお祝いばかりも言っていられないのはご承知のとおりです。人口減少にコロナ禍が追い打ちをかけ鉄道各社の経営はかなり苦しいと盛んに報じられ、いわゆるローカル線と呼ばれる区間の中では廃止するのか維持するのかという議論もされ、実際に廃止された区間もあります。こうした状況はこれからも続き、それも踏まえてまた新たな《鉄道と美術》の表現が生み出されてくることでしょう。

 少し鉄道の話題から脱線(!)しますが、前回のコラムで私は今年が還暦だと暴露いたしました。私が学芸員の仕事を始めたのは昭和の末期、1987(昭和62)年でした。おかげで平成から令和になった時には(ちょうど奈良へ転職してきた年です)自分も年寄りになったのかなあと感慨にふけってしまいました。それはともかく、私が新卒新人として最初の勤務先、滋賀県立近代美術館(現・滋賀県立美術館)の採用辞令を受け取ったのが1987年4月1日、これは奇しくも国鉄(日本国有鉄道)の分割民営化でJR(日本旅客鉄道)が発足した日なのです。ですから最後に買った通学定期は国鉄なのに対して、初めて買った通勤定期はJRという次第でした。したがって私の学芸員キャリアはJRの社史と同じ長さのわけで(だからどうした!)、私はいずれ引退する日が来ますけれども、鉄道は重要な社会インフラとしてこれからも頑張り続けてほしいものです。

安田篤生 (副館長・学芸課長)