ようやくコロナ騒動が終息したので、数年ぶりで岩手県の陸前高田へ行ってきました。ご存じの通りこの街は、2011年3月11日の東日本大震災の津波でほぼ全滅しました。美しい高田の浜辺を覆っていた無慮数万本の松林が、たった一本を残して流失したことでも知られます。そこで、200年以上高田の街を守ってきた松をただ朽ち果てさせたり燃料用チップにするのは忍びないと、地元有志や長野県の善光寺の僧侶らが慰霊の仏像を造ろうと立ち上がりました。そして、当時私が勤務していた東京藝大大学院文化財保存学に相談があり、直径1メートルほどの巨木を使って十体ほどのお地蔵さまを数年がかりで造らせて頂きました。それ以来、地元の方とずっと親しいご縁が続き、12年間の復興の様子を毎年継続して観察するという希有な体験をすることになりました。
さて民主党政権下の国、県、市が急拵えで策定した復興事業は、今から思えばかなり拙速が目立ちます。被災地全体を5メートル嵩上げする事業のために、周辺の山の木を伐採して、山肌を削った土砂が巨大なベルトコンベアを使って運ばれました。地元では、山を削ったことで気仙川への土砂の流入や山津波を心配する声もありましたが、急ぐ復興事業の前にかき消されたというのが実情です。案の定、流れ込む土砂によって海草は年々減り、牡蛎もウニも小粒になり、収量は減少し続けているとのこと。
市街地の嵩上げ工事と併行して進められたのが、高さ10メートルという巨大防潮堤で市街地を囲うという計画でした。地元民からは「街から海が見えなくなる」と反対する声が当初からありましたが、事業は強行されました。冷静に考えれば、百年に一度といわれる10メートルの津波の被害を防ぐのなら、ヘリポートを備えた高さ15メートル程度の避難施設を兼ねた公共の建物を300メートル程度ごとに10棟ほど建てれば、景観を大きく損ねずに、しかも格段に安価な建設費で、しかもおしゃれに復興事業ができたのではと思いましたが、後の祭り。
やがて嵩上げ事業が終わると、新しくできた地盤の上に道が造られました。そこでまず目を疑ったのは、新しく造られた道路に沿って、電柱が林立し始めたことです。「だれもが帰って来たくなる、移り住みたくなる街」を造るべきだったのに、まるで終戦後の昭和の街のように電柱と電線が街を覆い始めるという信じられない光景に呆然としました。さすがに街の中心部にできた公共施設や商業施設の周辺から電線の地下埋設が実行されましたが、その周辺の広大な造成地は松原の代わりかと思うほど電柱が林立しています。電柱と電線の地下化をおこなった未来志向のモデル都市を造る千載一遇のチャンスを失ったことは、残念だなあと思います。
左・中:新しく造成された高田市街地に林立する電柱と電線 右:山を削る巨大ベルトコンベア
わが国では、超が付く高級住宅街であっても電柱が列を成し、電線が張り巡らされていることが日本の七不思議のひとつに挙げられます。世界の大都市の電線の地中化率は、100%の欧米は別格として、香港100%、台北95%、ソウル49%に比べて、東京23区8%、大阪市6%はどう考えても異常です。海外の友人からは、「いくら富裕層が住んでいても、電信柱や電線が見えるような街はプアマンズタウンだ」と厳しいことを指摘されます。
左:無電柱化されたロンドンの街並み 右:世界の大都市の電線地中化率
左:港区麻布の街並み 右:世田谷区成城の街並み
さて、人類が火を日常的に使い始めて15万年程度と考えられています。その間、樹木を燃やすことでエネルギーを得ていましたが、18世紀ころから化石燃料が起こす蒸気エネルギーを利用するようになり、それ以降、人類はいかに効率よく発電するかに心血を注いできました。技術革新のたびに、生活は便利に快適になり、人口は急激に増加しました。しかし、20世紀になって夢のエネルギー源と思われた原子力発電が、スリーマイル島やチェルノブイリ、福島第一原発の事故によって暗雲が立ちこめ、現在は太陽光、風力などの脱炭素エネルギーを用いた発電が注目されています。しかしこれらとて太陽光パネルや巨大風車などの発電設備を造るのに要する莫大な環境負荷が解決されたわけではありません。そして永らく石油による内燃機関が移動手段を支えてきましたが、近年は自動車の世界シェア獲得競争でHybridかEVかで、きれい事だけではない理由で揉めているようです。
しかし、今私たちが地球上のすべての生物の存亡をかけて取り組むべき最重要課題は、たんなる「脱炭素」ではありません。それは、増えすぎた人類の数をどうやって減らし、快適になりすぎた生活レベルを引き下げながら、「脱電力」を進めるべきだと私は考えます。このことについては、また稿をあらためて。
2023年6月15日
奈良県立美術館館長 籔内佐斗司