深掘り!歴史文化資源
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歴史文化資源の成立の背景や、それを取り巻く時代の移り変わり、それぞれの時代を生きた人々の営みにまつわる
たくさんの物語・・・、これらとともに各地域自慢の歴史文化資源に触れることができれば、
きっとその魅力を何倍にも感じることができるでしょう。
ここでは、奈良県の歴史文化資源の魅力を倍増させる選りすぐった解説やエピソードとともに歴史文化資源をご紹介します。
もっと知りたい。もっと深めたい。ほんものの歴史に近づく入口がここにあります。
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- 奈良の歴史と仏教は、切っても切れない関係にあります。仏教は、①伝来、②受容をめぐる争い、③豪族による崇拝、④国家による導入、⑤民間への広がり、とさまざまな変遷を経ましたが、これらの仏教に関する重大な出来事は奈良を舞台に繰り広げられました。また、奈良には、南都七大寺(東大寺、西大寺、法隆寺、薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺)をはじめとする寺院や関連の歴史文化資源など、仏教にまつわる文化資源も豊富です。さらに、空海が奈良時代の密教をきっかけとして新仏教を切り開くなど、奈良仏教はその後の仏教の展開に大きな影響を与えました。奈良の歴史は仏教なしでは語れない、と言っても過言ではないでしょう。
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- 奈良県には古墳時代・飛鳥時代・奈良時代に中央政府がおかれていた関係で、古墳・陵墓が数多く造られました。しかも、それらが比較的良い状態で残っているのが特徴です。桜井市・天理市には最初期の古墳群やヤマト王権の初期の大王豪族の古墳が、その後の政治的中心となる飛鳥には天皇制が確立した時代の陵墓が、奈良市北部の佐紀には巨大な前方後円墳群が存在します。まさに、奈良県は古墳・陵墓の宝庫といえるでしょう。
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- 奈良県の古社には、ヤマト王権が発生する前から奈良盆地に根を張り、生活してきた氏族に由来するものが多く見られます。大神神社の三輪氏、石上神宮の物部氏、葛城山の裾野の葛城氏や鴨氏などです。それら氏族が祀ってきた神々は、ヤマト王権成立後に王権所縁の神々に習合されていきました。こうして、王権所縁の神々とともに、それぞれの地域、氏族の神々が「古事記」「日本書紀」に登場することになったのです。
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- 一口に古道と言っても、その成立の仕方は様々です。山の辺の道や葛城古道などは自然発生的な道であり、「古道」と聞いて我々がイメージするものに近いと思われます。これに対して、横大路・上ツ道・中ツ道・下ツ道などは、当時の都市計画によって造られた道です。東西あるいは南北の方位に従う直線道路であり、道幅も広く、水害を防ぐための側溝まで付いていました。このように、奈良県では、様々なタイプの古道の名残を見ることができます。
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- 壬申の乱は、天智天皇の死後、皇位継承をめぐって弟である大海人皇子と息子である大友皇子により、今の奈良県だけではなく、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域を舞台に展開された古代史上最大の戦乱です。名称の由来は、乱が起きた672年が干支で壬申にあたることによります。壬申の乱終結後、大海人皇子(天武天皇)・鸕野讃良皇女(持統天皇)により天皇を中心とした国家体制が築かれました。
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- 大和では興福寺が守護職を務めていたこともあり、核になる戦国武将は存在しませんでした。しかし、奈良盆地の北側では筒井・古市・箸尾氏が、奈良盆地の南側では越智・十市・楢原氏が、宇陀地区では秋山・沢・芳野氏が勢力を伸ばしていました。なかでも、筒井氏と越智氏の勢力が強まり、応仁の乱が起こると、筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して、大和の国衆も両陣営に分かれて戦いました。討ち続く戦乱は、国人衆はもとより、一般民衆にも多大な犠牲をもたらしました。大和にも戦国時代があったのです。
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- 明治4年(1871年)の廃藩置県から16年後の明治20年(1887年)、大阪府から独立する形で奈良県が再設置され、近代化が始まります。奈良公園が整備され、その周辺には省庁を中心に西洋の様式をとり入れた近代建築物が多数建てられました。また、人や物資(木材など)を輸送するため、近代化の象徴である鉄道も整備されました。これらの建築物や鉄道は、近代遺産として、現在にその名残をとどめているものも多く見られます。ぜひ、奈良の近代遺産を訪れ、神社仏閣とは違った奈良の一面を感じてみてください。
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- 奈良には多くの祭りがあり、中には1000年以上続けられているものもあります。「伝統行事」と一言で言ってしまうのは簡単ですが、地域の人々の苦労・努力があるからこそ地域がひとつにまとまり、その結果として長きにわたって受け継がれてきたのです。このページでは、3市町(御所市・田原本町・大和高田市)にて地域に根付いた祭りを紹介します。いずれも、祭りが行われるのは年に1日だけです。しかし、その背景には様々な伝説やいわれ、人々の思いがあります。みなさんも是非祭りに参加していただき、凝縮された1日を体験してみてはいかがでしょうか。
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- 幕末から明治の初め、写真技術が西洋から入り、開港場の長崎や横浜などを中心に、写真師という職業が生まれました。最初は、フェリーチェベアトなど外国人が写真館を開き、外国人相手に、当時の日本の観光写真や風俗写真を撮りました。彼らが、最初に日本人に写真術を教えたため日本全国に、多くの写真家が生まれました。その中で、明治から昭和にかけて、奈良に在住し奈良の文化財の記録や紹介、保護に貢献した3人の写真家を紹介します。
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- 正式には修二月会といい、過ぎ去った旧年の穢れを祓う懺悔(さんげ)と、来るべき新年の国家の平安や豊穣を祈るため、毎年旧暦二月に執行される「悔過(けか)」の法要行事です。この行事は、奈良時代に朝廷の保護を受けた南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、大安寺、西大寺、薬師寺、法隆寺)を中心に盛んに行われるようになります。それぞれの本尊に対して懺悔をすることで僧侶の自己修行だけではなく、国家全般の救済と利益につなげる法要で、浄行する僧侶は期間中毎日、心身を清めて礼拝行を行うという、苦行の一面も持ちます。
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- 西国三十三所の巡礼は長谷寺の徳道上人が養老2年(718)に始めたと伝わっています。2018年は西国三十三霊場が開かれてちょうど1300年の年でした。この西国巡礼は日本最古の巡礼で、奈良、京都、兵庫、和歌山、岐阜など2府5県に点在する33の寺院、「札所」にお参りし観音様を供養するものです。巡礼札所が三十三所であるのは、どちらも観世音菩薩をご本尊とする寺であり、観世音菩薩は現世の衆生を救うために33の姿に変化される仏様であることに由来します。
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- 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を始めましたが、足利尊氏に敗れ、吉野に「南朝」を開きました。これにより、京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立する南北朝時代が始まります。後醍醐天皇と吉野、南朝・後南朝、さらに今も残る南朝祭祀についてご紹介します。