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5 壬申の乱

2022年は古代史上最大の戦乱 壬申の乱から1350年!

  • 芋峠 箸墓古墳朝焼け
    壬申の乱とは…

    壬申の乱は、天武天皇元(672)年に天智天皇の後継をめぐって弟・大海人皇子と息子・大友皇子により、今の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域を舞台に展開された古代史上最大の戦乱です。

    白村江の戦いで新羅と唐に敗れ、東アジアの脅威に対処するため、臣下の反対を押し切って都を近江に遷した天智天皇。その後継者候補は、大海人皇子と大友皇子でした。天智天皇10(671)年、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命しますが、病に倒れ、病床で大海人皇子を後継者に指名します。しかし大海人皇子は辞退、出家して隠遁することを願い出、許されて夫人の鸕野讃良皇女を伴い吉野宮へ出立しました。大海人皇子を見送った臣下の中には、武勇に優れた大海人皇子が吉野に向かう姿を見て「虎に翼をつけて放つようなものだ」というものもいたとされます。約1ヶ月半後、この年の12月に天智天皇は崩御しました。
    天智天皇崩御の翌年、大海人皇子は近江の朝廷が自分の命を狙っているという情報を得て、6月に吉野を出て挙兵し、大友皇子の近江朝廷軍との戦いが始まります。菟田(宇陀)から伊賀、鈴鹿と地方の豪族を味方につけて兵力を強化。軍兵を集めながら進み、近江から逃れてきた息子たちと合流。東国から近江朝廷軍への増援を防ぐため、不破関を封鎖するなど交通の要所を確保しながら、各地で近江朝廷軍との戦いを繰り広げます。息子の高市皇子や臣下の奮戦により各地で勝利し、臣下である大伴吹負らの働きにより飛鳥も制圧します。7月22日、追い詰められた近江朝廷軍は最後の決戦の場所として、近江の瀬田橋の西に陣を構えましたが、大海人軍がこれを突破。敗走した大友皇子は自害し、大海人皇子が勝利を収めました。
    壬申の乱終結後、大海人皇子(天武天皇)及び鸕野讃良皇女(持統天皇)により天皇を中心とした国家体制が築かれます。

  • 上ツ道
    奈良県内の壬申の乱にゆかりのある歴史文化資源
    天智天皇の時代、都は近江に遷っていましたが、それまで都は飛鳥にありました。壬申の乱でも、それまで都のあった飛鳥古京は依然として両陣営(大友皇子の近江朝廷軍と大海人皇子軍)にとっては重要な拠点であったため、奈良県域でも両軍による激しい戦いが繰り広げられました。
    出家して吉野に入っていた大海人皇子が大友皇子を討つべく兵を挙げた地である吉野宮(宮滝遺跡)や戦いの場となった箸陵(箸墓古墳)・上ツ道など、奈良県内にある壬申の乱ゆかり地を当ホームページ「歴史文化資源データベース」でご紹介しています。
  • 藤原宮跡と香具山
    飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群(飛鳥・藤原)を世界遺産に!

    壬申の乱に勝利した大海人皇子は都を飛鳥に戻し、飛鳥浄御原宮で即位(天武天皇)しました。天武天皇の死後、皇后であった鸕野讃良皇女が即位して持統天皇となり、都を藤原京に遷しました。
    天武天皇が即位した飛鳥浄御原宮である飛鳥宮跡や持統天皇の時代に遷都した藤原宮跡という古代日本の中心であった2つの宮殿跡を始めとする20件の資産(遺跡)で構成される「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群(飛鳥・藤原)」は2007年に世界遺産候補となる暫定一覧表に記載されました。
    奈良県では資産が所在する橿原市、桜井市、明日香村とともに「飛鳥・藤原」の世界遺産登録に向けた取組を進めています。「飛鳥・藤原」は、中国・朝鮮半島など東アジアの先進文化との交流や、中央集権体制による律令国家の誕生、日本の古代国家の形成過程を明瞭に示す比類なき資産です。

    なお、奈良県には既に3件もの世界遺産が登録されています。奈良県の世界遺産についてはこちらでご紹介しています。

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