活かす 聖徳太子プロジェクト

聖徳太子ゆかりの市町村 磯城郡 三宅町

聖徳太子が通勤した古代道路 『太子道』

太子道三宅町エリア
腰掛石
黒駒に乗る太子像
太子接待の絵馬
屏風の清水
聖徳太子とのゆかり

およそ1400年前、飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩宮から三宅の原を経て飛鳥の小墾田宮へ、お供の調子麿を従え、愛馬黒駒に乗って通われたという伝承があり、その道を「太子道」と呼んでいます。奈良盆地中央部の三宅町屏風から田原本町保津方面へと一本の道が南南東方向へ斜行して走っている部分が今日に至るまで残っています。この道路が、建築時の柱の補強材の「筋違」に似ていることから「筋違道(須知迦部路)」と呼ばれました。『万葉集』に詠まれている「三宅道」がこの太子道のこととみることもできます。中世以降は「法隆寺街道」とも呼ばれ生活道路として盛んに利用され、現在では町道70号線として活用されています。

聖徳太子ゆかりの歴史文化資源

太子道沿いには、太子ゆかりの伝説が多く残ります。三宅町の白山神社には、太子が斑鳩宮から飛鳥を往来され、この地で休息された時に腰を掛けられたと伝わる「腰掛石」があり、また太子を偲び昭和5年この地に聖徳太子が愛馬黒駒にまたがり、屏風を往来される像「黒駒に乗る太子銅像」が建立されました。銅像は第二次大戦中、金属類の献納で取り外され台座が残されています。現在の像は平成24年11月に再建されました。白山神社向かいの屏風杵築神社には、村人が太子にお菓子などを献上して、もてなしている様子が描かれている「太子接待の絵馬」が残されています。又、屏風を立てて太子を接待したことから「屏風」という地名になったと言われています。境内にある「矢じりの井戸」も太子ゆかりの歴史文化資源です。太子が屏風村をお通りの時、お供の調子麿が飲み水を探しましたが、見つかりませんでした。太子が従者の持つ矢でこの地を一突きすると、なんとそこからきれいな水が、こんこんと湧き出てきました。村人はこの清水を「矢じりの井戸」と名づけ皆で大切に使いました。